余生について


夫の祖母が遺した
自叙伝がある。
折に触れてそれを
読ませていただくのですが、
今の実家がある地に至るまでの
様々な出来事が
記されており、

戦争がきっかけで
人生が流転したなかで
強く逞しく生きてきた
ひとりの女性の姿と
関わってきた人への感謝が
文面から伝わってきました。

安住の地での日々を
余生とし、
自由気ままにその余生を
過ごしていたそうで
その気ままさゆえに
義母はかなりの苦労を
強いられ、夫からは
困り者の祖母、として
私に語られていたのとは
随分とギャップがありましたが、

自叙伝のおかげで
どんなふうに
義父が育てられてきたのか
という歴史を知ることができ、
私にはとても貴重なものでした。

余生において人は
自らを振り返り、
何かを遺そうと
思うものなんだろか。

色んな思いを
昇華させて
美しい何かが
遺されていく。

当の息子である
義父はまだ現役。
余生とは
社会に第一線として
属さなくなった時に
訪れるものだと思う。

『惰性で生きてるのよ』
とある女性が言った。

蓄えや財産で
目的なく
日々を生きているから
らしい。

義母は愛猫と共に
義父を支えながら
家族に贈り物をしたり
家にあるもので
何かをこしらえたりして
余生を送っている。

苦労の末の、
自由な時間。
きっとそれが
余生というのだろう。

仕事仲間と
余生について語る。
私たちに
余生はあるのかな?
私たちは
余生を生きる人を
支えてるんだね。

🍀🍀🍀

夫が
『今日は散々だった』と
夕飯を食べながら語った。

通勤電車で
押し潰されそうになり
職場では
自称テレワークを推進する
上司に振り回され
険しい顔つきで帰宅した。

『あなたは電車に乗らずに
猫と戯れる時間があっていいな』

『あなたはそれを
選んだんだよね』

それだけではないけれど
電車での通勤や
組織がらみのいざこざに
嫌気が差したのは事実。

仕事も経済活動とは
ちょっと違うので
私も
余生といえば余生
なのかもしれない。

女性としての役目というか
子をなす可能性が
ゼロになったから
というのも、ある。

ときどき
その事に触れられると
古傷を見直すような
違和感があるけれど。。。


第一線だろうが
余生だろうが
惰性だろうが


生きてる
ということには
変わりない。


感動したり
感謝したり
不快だったり
悲しかったり
すべては
生きていて
心があってこそ。


雨のなか
雨に打たれて
自転車をこぐ。
そんな自由を
私は選んだ。


あちこちに咲く花や
あちこちから現れる
鳥や猫たちとともに
毎日を謳歌するために。


2018年3月20日
Mahalo,nui!!

SLOW DOWN LIFE

あらゆるものが加速する中で 敢えて減速して生きていく。 マイペースに。丁寧に。 不定期に綴る、 減速生活のススメ。

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