ぷう

フラ、ウクレレ、カリンバ、朗読を嗜むアラフィフです。
笑顔になれることを、日々みつけるのが大好き。どんな風も、追い風に前へ!

記事一覧(442)

どうでもいい話をしよう

2022年の今日。2月24日。私は推しのアニメキャラの聖地巡礼で神社の御朱印を受ける列に並んでいた。 目を疑うような速報に絶望感に包まれつつも推し活を遂行し、二度と訪れない今日を十二分に楽しんでいた。今朝。朝食に焼きすぎたピザを食べながらチコちゃんに叱られる!を見ていた。猫の目が光る謎について何故だったっけ?と気にしていた私にはタイムリーなリマインドだった。網膜の裏側にあるタペタムという反射板を猫は持っている。 (2022年の4月29日の再放送より)昨日の夜。大好きなドラマの展開があまりにも切なかった。現実においても震災を切り離して人生を全うすることが困難になってきている。世の中の殆どのことはどうでもいい事でできている。はずなのに。2024年の今日はあの日の絶望感が増大してる。世の中の大多数の人々がどうでもいいと思うような事が私には大事に思える。例えば猫の目のタペタムとか。 例えば買ったばかりの安物の保冷バッグの裏地のほつれとか。どうでもいい話には自由がある。どうでもいい話ができる私はシアワセだ。どうでもいいと手放してしまえないものか。こだわりを。他者を。世の中を。時には理想を。猫の目のタペタムは気になって羨ましく思ったが、人間には無いものだ。バッグの裏地のほつれも気にはなるが、直さなくても使える。だけど猫の目のタペタムみたいなものを作り出せたらと思う人がいる。そしてバッグの裏地のほつれを下手でも直したいと思う私がいる。昨日。ひょんなことからリハビリ中の腕が上がらなくなって困惑気味の夫が「今日のリハビリが終わったら行きたかった企画展に行こう」と私を誘ってくれた。すぐには治らぬ腕に執着せず素敵だと思えるモノに会いに行く。そんな2024年2月24日の今日。どうでもいい話だけど、いい天気ですね。どうでもいい話だけど、今日は何をしますか?どうでもいい話をしよう。そして互いを認めあって互いの今日のシアワセを願うことが出来ますように。追伸。どうでもいい話ですが、とっても素敵な1日を夫と過ごすことができました。例えば竹芝で出会った虹色のスイーツとか。例えばブルートレインの写真展や フランク・ロイド・ライトの企画展とか。例えば変わらず穏やかな、地域猫の今日の姿とか。どうでもいい話を、これからも続けられますように。

花とドラマと

仕事が楽しいヤツは人生の半分楽しい。そして人生の半分楽しめるヤツは残りの半分も楽しめる。2009年のドラマ「リアルクローズ」から聞こえてきたセリフが2024年の私に響く。あの頃の私は夫と今の住まいで新生活を始めてまだ1年が過ぎた頃だった。派遣社員だったあの頃。それなりにやり甲斐は感じていた。仕事を通じて世の中と自身のシアワセを実現していくようなストーリー。少なからず共感して励みにしていた。5年後、10年後、あなたは何をしていたいの?have to じゃなくてwant を考えなさい!パワフルなセリフが印象的だった。大型デパートを舞台にファッション業界で働く人たちの人生模様。夫と二人、のめり込んで見ていた。そして最後は涙まで流した。意にそぐわぬ環境に転籍となりそこで自己を見つめ直した主人公が、ファッションを通じて人を幸せにすることへの喜びに目覚めていくというストーリー展開とデパートという業態への存続の危機に立ち向かうという内容やカリスマ性あるリーダーとのやり取りに夫婦揃って引き込まれた。  夫は去年、7月から転職活動をはじめて年内に内定を頂くことができ、 2月19日に退職。その翌日から新天地で働いている。前職では意にそぐわぬ転籍を経験したが、今の職場ではむしろ転籍先での経験が役立っているようだ。退職日。生まれて初めて花束を贈られた夫。その花が、贈られた翌日には新天地へのエールとなっている。オレンジや黄色の花々をリビングに飾って眺める日々。ここで終わりたくないまだまだ頑張れるところがあるはず。51歳になり、困難な転職を決意した。  書類での通過率は2%。エージェントの力を借りつつ自力でも応募し続けて内定を取得。年明けに旅先での転倒事故で骨折。手術を受け、全治に半年。現在はリハビリの最中でもある。何があっても新天地に行くという決意が挫かれることはなかったのは本当に感心する。2009年。あの頃の私達は互いに都心に通勤しながら同志のように励まし合う日々だった。2024年の私達は、それぞれ働く場所が変わり目指す方向は異なったけれど、咲きたい場所で咲き、それぞれのドラマを讃え合っている。あっという間の15年。桃も栗も柿も実が成る程の年月だ。仕事を通じて誰かを笑顔にしている?仕事をスキでいられている?あの頃の私が問いかける。YESなら、残りの人生も楽しめるはず。SNSがさほど活発でなかったあの頃は自身と向き合うだけでよかった。映えも評価も今ほど気にせずに眼の前の景色を楽しんでいた。自分なりに咲いて唯一無二の自分を精一杯演じよう。未来の自分が楽しかったと振り返る。いつか花をまた今日みたいにしみじみと愛でながら。

お世話係チャレンジ

2024年の、新しいチャレンジ。犬猫の保護シェルターでお世話係をはじめた。「犬と猫、どちらかお世話したことありますか?」そう聞かれて、猫と答えたのは失敗だった。どっちもないが、正しかった。日頃猫パトロールをしてはいるがお世話されるような猫は殆どいない。猫側からしたらお世話された憶えは、にゃい。2時間の、生まれて初めてのお世話ボランティア。言われるがままに恐る恐る猫に関わる。猫たちは、人懐こくて威嚇のシャーもなかった。お水とご飯のお皿を下げて排泄物の撤去とシートの交換。夜は冷えるからと毛布をハウスに入れるのも苦労は全くない。そして外に出たがる猫もいない。「次は、ワンちゃんのお世話に行きましょう」犬の保護シェルターは、別棟である。扉を開けるやいなや、賑やかな犬の声。鳴かない犬のほうが少ない。穏やかだった猫舎とは真逆の犬舎。同じことをするだけでもだいぶ労力が違った。① 排泄物が多く、頻度も多い② 床や布、おもちゃも汚れる③ 世話する側も汚れる生き物は体調によって排泄物の様子が異なり部屋の汚れ方が派手に違ってくる。お世話係がそれぞれの個室に入るので汚れ方がそこで変わってくるし出入りの際の飛び出しの危険性も高い。大きな犬の世話は慣れた人でなければ難しそうだ。(今回犬のお散歩もあったのだが15kgの2歳のパワーに戸惑った)介護職として訪問宅で犬猫に遭遇することが時々ある。その際、原則として介護士に接触しないよう別の部屋に留めおくか、リードやハーネスに繋いでおくのだが、稀に室内を自由に往来しては足元に纏わりつかれることがある。その際も、猫より犬のほうが扱いに困ることが多い。今後どこまで関わるのかは不明だが、時間に制限があるので可能な限りのお世話を教わった。●水とご飯のお皿を洗ってもとに戻す(先に消毒に浸け置くものもある)●汚れた布類の汚れを洗い流して洗濯、乾燥●新しいお水とご飯のセット●ゴミ類をまとめて敷地内のセンターへ未経験の私が果たしてどこまで約に立てるのかはまだわからない。お世話係としてどこまで関われるものかそれもよくわからない。だけど猫も犬もカワイイ。いろいろな経緯でシェルターに来たのだから保護主に出会えるまでは穏やかに健やかにここで過ごしてほしい。訪問先ではそこに住まう利用者を1番に考えるみたいにここでは犬と猫を1番に考えればいい。無駄な学びはここにはない。週に1度の学びの2時間が様々な刺激となりそうだ。※写真の子は、昨年の譲渡会のものです

グラタンとリハビリ

2024年の大きなうねりの中で穏やかな日々のありがたさを噛みしめる。日曜の夜。夫がグラタンを作ってくれた。(日曜は私が仕事なので夫が在宅のときは作ってくれている)なんと我が家でグラタンを作ったのは今夜が初めてだった。天袋のような台所の棚に確かあったはず、と、ガラス製のグラタン皿を出してくれた。「ウインナー、食べた?」午後の仕事前に下ごしらえしておいた野菜たちも、美味しくグリルされていたが夫が加えたウインナーは会心の焼き上がりだったようだ。 「まだ、あと二回は作れそうだよ」夫の得意料理、確定らしい。 なぜだろう。グラタンを作りたいとも食べたいともおもわなかったのは。出来ることは、自分でやるという、自立した夫。 トラブルからのリカバリも普段なら一人で乗り切れる。だけど年明け早々の一件は沢山の人のお世話にならなければ乗り越えられなかった。 転職を2月に控えていた矢先、年末年始休暇の終わりに雪山で骨折した。日帰り旅行で鎌倉にいた私はちょうど鶴岡八幡宮での特別祈祷に参加するところだったのだが、能登の震災復興に加えて夫の無事の帰還を神楽殿の祭壇から祈念した。その願いが聞き入れられたおかげか(願いとは誓いであるのだが)夫は現在、私にグラタンを振る舞える程回復している。奇跡的な回復への軌跡を、記録として記しておこう。1/6 スキーで転倒、会津から関東へ自力で最寄り駅に戻って夜間外来に駆け込む(宿泊先の方が駅まで1時間の距離を車で送ってくれた)夜間、整形外科医のいる病院で検査を受け、骨折判明1/9 整形外科受診(紹介状持参)奇跡的に専門医の診断を受け、手術確定1/10 入院(フロアスタッフが偶然妻の知人でホッとする)1/12  手術(3時間の金属インプラント手術成功)1/19 退院1/22 初出勤で職場復帰サポーターで腕を固定しながら通勤週に3日(月木土)のリハビリを受ける(回復までは最低半年継続予定)1/26 腕の固定(三角巾)サポーター解除(出勤時にサポーター着用し忘れるほど回復)入院先での夫とのやり取りの中で、健康的な食事が話題となり、電子レンジを新調したこともあって、さっそく新しいオーブンレンジでグラタンを作るに至ったのだった。回復傾向であるとはいえ、腕を肩まで上げるにはまだまだ時間がかかる。体内に金属プレートがある感覚や寒さで傷口がうずく感覚にも慣れていくには時間を要するだろう。骨折は修復から回復へ。リハビリ生活こそ夫の戦いの日々だ。次に夫の作るグラタンを食べるとき、腕がどこまで回復しているだろう。痛みを堪えながら椅子に座って体を前傾させ、リハビリで教わった腕を床につけるトレーニングを風呂上がりに実践していた。1/29の夜。夫の学生時代の友人から連絡があり、互いの近況と共に自身の骨折の話をする夫は笑顔で声も明るかった。事故から3週間が過ぎていた。この笑顔がみられてよかった。寝る前、何故か顔をクシャクシャにして泣き顔で寝室に向かった夫。入院中に19歳で虹の橋を渡っていった保護猫パンダとその仲間について写真本を作ったのを読んで泣いていた。もう、あの場所には猫たちは居ないんだね…夫の骨折と愛猫との別れ。私も喪失感が大きい。ホッとした気持ちとともに夫婦で猫の話をして泣いた。笑って泣いて忙しい日常。誰かのことを思えるって何より素敵なことだよね。何かを失ったとしてもその心だけは無くさないように。また、グラタン作ってね。(カブを入れるのがおすすめです)

共に、未来へ。

2023年を、忘れない。馴染みの外猫との別れ。2月にシマグレ12月にグレハチどちらもお別れが出来たことを忘れない。夫の苦難と挑戦。7月から始めた転職活動、51歳の挑戦は衛生管理の資格と大手総務のキャリアが小規模エージェントの目に止まりエンゲージメントに至った。このままで終わりたくない今を生きる私達は少なからずどこかでそう思って潜在意識に導かれて未来を向く。夫の思いが報われたことを忘れない。コロナ禍からインフル禍へ。マスクは職場の必須アイテム。極力ワクチンは打たない。健康は自己免疫で守ることを忘れない。そして2024年。元旦の朝日を地域猫キジマルコと迎えた。寝床を追われて人目につく側溝で何かを訴えるように暮らしている。共に、生きていこう。そう言ってる気がして夜の暖をとるカイロを追加で仕込む。元旦は、妻である私の実家でまずは新年のご挨拶。やや洋風のオリジナルなお雑煮に取り寄せた豪華な京風おせちと、スーパーで購入したお刺身。紅白や駅伝の感想を言い合いながら弟も少し合流して互いの健康と安全を願い合うご挨拶。元気なうちに、お出かけしておこう。列車の旅を、今年の目標にした。昼過ぎ、夫の実家へ、早めに向かう。義父から連絡もあって、先に初詣に行ってから帰宅した。さあ、ひと休み。保護猫まめにゃんに挨拶して居間で団欒のひとときを過ごしはじめた頃。16:06に警報音が鳴り、能登半島沖を震源とする大型地震が起きた。遠く離れた関東にも長い揺れが起きた。津波の被害は予測を下回るも輪島の街中で火の手が上がり、かなり広範囲の家屋が全焼。あちこちの道路で亀裂、寸断、崩落。珠洲市の9割が倒壊したと後に判明した。(珠洲市には過去、原発が献灯された経緯が有ったと初めて知る)寄付する事しか、今はできない。かつての東日本大震災の頃は心がざわつき続けて物資を送り続け、2ヶ月後現地へ向かったこともあった。困ってる人に、実際に会いたい。話を聴くしか出来なくても。当時車で得意先のお宅に毎日のような食材を配達して回っていた女性は、眠気覚ましを飲みながら運転をして現地を案内してくれた。話をするうちに緊張が解れたのか涙を流していた。同行の女性には「この景色を見て、復興できると思いますか?」と質問されたあの日から、12年が経過した。沿岸地域に無限に広がる、何もない景色。かつてここに家があった、その土台だけがあった。鉄筋の建物の上には、車があった。漁港を乗り越えて街なかに、船があった。祈念公園が作られ始めた2019年にようやく夫を伴って再会できた。コロナ禍の2022年夏、忙しさの合間を縫って、また会うことが出来た。そして2024年。出来ることをとSNSを辿り、地元で開催される全国高校サッカー選手権で3回戦に対戦する石川県代表星稜高校の応援団が現地入り出来ないという情報を得た。義母を誘って車で柏の葉スタジアムへ。50人程度の応援団は、2回戦を終えたチーム。そして次の対戦を控えたチームも応援に加わっていた。対戦相手も星稜のチームカラーである緑色のメガホンなどを貸与してくれたそうで、勝ち負けを超えたゲームとなった。その反対側、自由席でも黄色い紙が配られ健闘を陰ながら応援していたのだが、その一員になれた事は想像もしていない未来だった。大きくなった甥と姪と、夕飯を共に過ごす。成人して大学4年となる甥と春から大学生になる姪にテレビを消した空間で色んな質問をする。スキな事に夢中な大学生活であってほしい。デザートのいちごを食べる顔は幼い頃から変わらないあどけなさだった。猫パトロールを終え、自宅で落ち着いた2日目の夜。不在票が気仙沼から届いていた。2022年の夏に、慌ただしく再会した女性から、フカヒレスープが送られていた。応援のベクトルは、今、双方向の矢印だ。一時は歩行困難なほど具合が悪くなった2023年だったが、今年はどこかで時間を作って会いましょう! と明るい声を聴くことができた。1月2日。羽田での衝撃的で辛い事故が夕方に起きていた。奇跡的に旅客機の乗員全員が炎と煙の中脱出に至った事を、忘れてはならない。そして海上保安庁のエアバスは新潟への支援に向けて待機しており東日本大震災で唯一無事だった機体と共に精鋭達5名が帰らぬ人となったことを忘れてはならない。生きている限りこのままでは終わらない。このままでは終われない。「がんばれ! 日本の絆 今こそ強く」全国高校サッカーで選手権3回戦で日大藤沢の応援団が掲げた横断幕には力強いメッセージが描かれていた。出来ることをしよう。出来る人を出来た人を応援し、讃えよう。批判は、時間のムダだ。スポーツで音楽でエンタメでスキなコトでそれぞれに未来をいきていこう。会いたい人と会いたい自分が未来で待っている。

耳寄りな日々

 令和5年の紅白歌合戦は、耳慣れたアニメやドラマ絡みの楽曲が多くエントリーされた。毎年、紅白で世間の流行りを後追いする私にとって、耳から得る情報は心地よく脳裏に残っていく。 コロナ禍にアニメ『鬼滅の刃』が映画化され、オーケストラの演奏に触れて作品の世界観を耳から楽しむことができた。作品の背景に流れる劇伴も、あらゆる作品で耳に残り、その世界観に私達を誘ってくれる。最近は、アニメ『葬送のフリーレン』の劇伴に使用される北欧の楽器が、ノスタルジックな冒険の旅に耳から連れて行ってくれるのが毎週の楽しみである。 音楽が、理由もなく心を鷲掴みにする。そんな体験が続いている。 アニメ映画『BLUEGIANT』でも、ジャズの熱さが劇中の演奏から伝わってきた。音響の良い上映館に通うファンが沢山現れ、再上映も続いている。もはや耳からに留まらず、体全体で楽曲を楽しみたいという衝動に突き動かされる作品なのだ。 コロナ禍や世界情勢、気候変動の不安で縮こまった心を解き放ちたい欲求が、あちこちで渦巻いて溢れ出ている。溢れ出るなら、怒りではなく歓喜であってほしい。 朝の連続テレビ小説『ブギウギ』で、ラッパと娘という楽曲がステージで披露された。そのシーンに、またしても心を鷲掴みにされた。この楽曲が発表された当時、昭和14年は、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。日本では「国民徴用令」が7月に公布される。燃料不足から、木炭が配給制になり、統制や抑圧が厳しくなっていく。舞台を大手を振って縦横無尽に動き回れたギリギリの頃。ラッパの演奏に負けないくらい威勢よく声を張り上げる笠置シヅ子さんを演じる趣里さんの歌声が、耳から離れなくなった。そしてご本人の歌声も、耳から脳裏に焼き付いた。 「ジャズは熱い」と評して世界一のサックスプレイヤーを目指したのは、アニメ映画『BLUEGIANT』の主人公、高校を卒業して仙台から上京したばかりの青年、宮本大くんである。その言葉を実感したのは、映画のクライマックスのあたり。仲間が不慮の事故に遭い、夢の舞台に立てなくなりドラムスとテナーサックスだけで演奏するシーンだった。逆境でこそ、その熱さが伝わって来る。切なげな短調の音階は、ジャズがブルーと表現される由来らしいのだが、抑圧された感情が溢れ出す表現として、西洋音楽の規律に反する自由さも、ジャズの熱さなのだと私は理解している。 耳から脳へと伝わる熱いエネルギー。映像技術に目を奪われがちだが、楽曲にも耳を寄せて、その熱量を味わう日々を、今、この時代にこそ楽しみたい。蕗357号 掲載予定

受難から未来へ

 酷暑が立秋を超え、処暑を過ぎても日本列島に留まっている。台風の進路が北にずれて熱波が日本海側からも吹き寄せ、連日熱中症アラートが発信されている。 8月8日。マウイ島のラハイナが焼土と化した。歌に出てくるその街は、自然が豊かで人々が大らかに日常を楽しむ様子が微笑ましいのだが、防災への配慮が問題視される報道もあり、そこに連日の乾燥と、ハリケーンの暴風が重なり、大火災となったようだ。 地球温暖化から、地球沸騰へ。それを私達は否応なく体感させられている。マウイ島に限らず、山火事はあちこちで発生しているが、今回は急激な乾燥という「フラッシュ干ばつ」が発生したこと、乾燥に強く燃えやすい外来種の草が繁殖したことが、大火災の原因となったようだが、線状降水帯に悩まされていた日本にとっても、他人事ではなくなってきた、と最近特に感じている。 コロナ禍で貴重な高校時代を終え、成人を迎えた若者が、8月2日に突然我が家に泊まりにやって来た。その前日、都内では集中豪雨があったのだが、その中で彼女はひとり、大阪から新幹線で友人に会うために東京に来ていた。宿を押さえたものの心細い思いで都会の一晩を過ごし、母親の友人である私を頼ってLINEで連絡を試みたのだった。  本来なら彼女は、都内にいる友人宅に泊まるはずだった。友人は大学生活における人間関係に悩み、人と会える精神状態ではなくなったのだそうで、恐らくコロナ禍で人との距離が保たれていた所から、直接対峙する機会が増えたことで生じた弊害であろう。都内滞在中、二人が会うことは叶わなかった。 都会で突如ひとり、観光して過ごすこととなった彼女も災難だ。気分転換換にと浅草観光に付き合ったが、東京観光のメッカはやはり大混雑だった。酷暑の炎天下、日傘片手に食べ歩きするのが彼女の望む楽しみ方だった。仲見世で飲んだレモネードに、人形焼を乗せて写真を撮る感性で、後日動画を送ってくれた。1分程度の尺に、若者目線の東京が詰まっており、突然の受難も私達には良い思い出となった。本来なら一緒に楽しんだであろう彼女の友人とも、いつかまた東京観光を楽しんで欲しい。 訪問介護士として地元で働き始めて、今年の8月で8年目となる。様々な出来事に心身ともに鍛えられながら、今年の酷暑下でも何とか体を壊すことなく働けてるのは、日常がスポーツのようだからだろうか。帰宅途中で毎日会う地域猫に、散歩がてら会いに来る人も増えた。一方、捨て猫や不法投棄もあり、先住猫には居場所を脅かす災難となっている。 人が動けば災いも起きる。観光地では人手不足でイベントを中止する自治体も現れ、問題回避策が実践され始めている。自然災害と向き合いながら、災いを福と転じるよう創意工夫を続けながら、豊かな未来に向かっていきたい。蕗356号 掲載予定

花と共に

 母の日の週末に、両家の母を訪ねて回るドライブツアー。コロナ禍でも続けていた恒例の行事だが、今年は忘れ難い週末となった。 夫の両親には、結婚前からの長い付き合いの友人夫婦がいる。家族ぐるみで旅行に行ったり互いの家を子供達が行き来したり、義父の職場繋がりでのご縁らしいが、双方の妻は夫らを上回る仲の良さだったようだ。  最後に会ったのは、4年前。コロナ禍直前で、肺ガンと聞かされ会いに行った翌年の秋だった。その後夫の両親だけでも昨年、会いに行ったらしい。ご主人も認知症を発症し、奥様が入退院を繰り返すようになり、今年はどうしようかと義父が迷っていると聞いて、再び4人で大型連休開けに会いに行こうと予定を組んだ矢先、奥様の容態が急変。病床から、私達の来訪予定を思い出し、入院を知らせる電話をかけて義母と話したのを最後に、78年の生涯を閉じられた。 コロナ禍でも幸いにして家族葬の会場へ、通夜、告別式の両日共に参列することができたのだが、闘病生活が始まる直前まで続けていた活動への感謝状が飾られており、市長から弔電を頂く程活躍されていた事を知った。 戒名に、睡蓮。優しく微笑む生前の姿が偲ばれる。幸いにして出棺前のお花入れに立ち会わせて頂くことも出来た。母の日に、花と共に旅立った。これからは、母の日が来る度にこの日を思い出すだろう。 通夜の際、来訪者を笑顔で迎えていたご主人。自身の事情について、頭を指差しながら「ココがどうもダメでね」と字を書くのが特に苦手になったと話していた。笑顔は見られたものの、奥様との最後の別れの瞬間は、ただ目の前の奥様を言葉なく見つめる姿が切なかった。奥様の胸元には、ご主人が置いた赤い花。患っていた肺に一番近いところにあった。 母の日の花を花屋で選ぶ時には既に訃報に触れていた。どんな花が好きだったのだろうか。そんな事を考えていたら大きな蕾が目に止まった。どんな花が咲くかを楽しみにできれば、と名前を伝えずに花束の主役にした。 「芍薬ね!私大好き!」と、義母は赤子を慈しむように両手で萼を揉み、花弁の先端に鼻を近づけていた。こうすると花が開き易いのよ、と。義母の期待に応えるかのように、告別式から戻ると蕾が大輪の花を咲かせていた。   当初ドライブで会いに行く予定だった日。葬儀翌週の土曜日。夫が家の留守電に生前の声が残っていた事に気づいた。4年前、記念写真を飾れるように加工して送ったものが届いたという知らせだった。その声は、あたかも今回の参列へのお礼のメッセージのようにも聞こえた。 あの日の「ありがとう」の声が、貴重な記録となり、何度でも私達の心に花を咲かせてくれることと思う。蕗355号 掲載予定

特別な日々

4月19日。なんの日だっけ?SNSが、リマインド。舞浜で、挙式と結婚披露宴。あれからもう、15年。夫婦揃って日常に追われる日々の中でその「特別」を忘れてた。 風が強くて少し雨が混じったおかげでライトアップされたラウンジで階段に並んで集合写真を撮ったっけ。ハプニングのほうが色濃く思い出せる。  15年目の「特別」は穏やかな夏日。季節の花々が例年より早く満開となり、ツバメも飛び始めた。毎日はそんな異例な「特別」に溢れている。それをコロナ禍でしみじみと日々、実感している。訪問先への道すがら、沢山の花と遭遇する。名前を調べて挨拶をした。「この時期は自転車で移動するのが楽しくていいですね」と、ご主人を緩和ケアされている奥様がにこやかに話しかけてくれた。季節の花や、思いがけな花に溢れ、愛情たっぷりの「特別」なおうちで少しでも長く穏やかな日々を生きてほしい。そう願いながら、丁寧な日々に寄り添う。沢山の「特別」に気付かされながら。15年目の「特別」は夫のノー残業デー。そして映画のサービスデー。夫の好みの映画を一緒に観た。20:30からの上映で、併設の、ショッピングモールは20:00閉店。駅前のマクドナルドに長蛇の列ができていた。「働き手が居ないんだよな」と、ハンバーガーを食べながら食べる店のある「特別」に安堵する。外食しながら互いの思いを「特別」に吐露し合う。仕事の話はそこそこに、趣味の話で盛り上がった。これからの趣味は、どこにも属さないでできるのがいい。趣味はそれぞれの「特別」な時間。ミニマムに自己完結を理想としながら持続可能なカタチがいい。そんな思いで共感し合った。互いの誕生日が近く、約1週間は同い年となる。今年は「特別」な、生誕50周年。これまでも、これからも、「特別」な日々は続く。予期せぬことは喜ばしいものでないことが多い。だがそれさえも「特別」と楽しんで彩り豊かな思い出を積み重ねて行けたらと思う。